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じぶんらしく生きるとは


南仏。夏。ラベンダー。彼女の生き方。

家に帰ると、ラベンダーの束があった。その紫の可憐な花を見る前に、リビングいっぱいに満ちている香りで、それとわかった。この季節、ラベンダーを栽培している方がいて、毎年、花束を届けてくれるのだった。雑草のように地味な花から、自己主張の強い揺るぎない香りのメッセージを放つ、その不思議、アンバランス。

南フランスをロケで旅したことがあった。もう30年ほど前。ちょうど季節は今と同じ初夏の頃。コートダジュールの眩い光のなか、海岸線をひたすらイタリア国境に向かってクルマは走っていく。「なにもかも明晰」、たしか印象派の画家、ゴッホかセザンヌが言ったと思うが、山の稜線も杉木立も家々の青い壁も沖のヨットの白い帆も、くっきりとして色鮮やかで濁りのない世界、それが南仏だった。

フランス人のドライバーがクーラーを切って、窓を開けて外の空気をいれてください、と言って、僕らはなぜと思いながらも、その通りにすると、いっぺんに香りが光がなだれ込むようになだれこんできた。「ほら、ラベンダーの丘が見えてきましたよ」。

道の両側には、紫の絨毯がゆるやかに果てしなく広がっていた。その無数の花たちが咲き誇り、いのちの限りにきらめくように香っている。

僕らは、グラース(GRASSE)と言う、世界でもっとも有名な香水の街を目指していた。その街に近づいてきていたのだ。シャネル、ランバンを始め、フランスの香水生産の7割近くがこの街で生産されていて、たくさんの香水のファクトリーがあり、見学ツアーもたくさんあった。

ファクトリーには、さまざまな匂い立つ花びらが集荷されていた。それを大量に銅製の釜に入れてぐずぐずと煮て、エキスを抽出する。そのエキスを小さく太い半透明の瓶に詰める。そして、そのエキスを調合して香水ができあがる。その工程に沿った見学ツアーは、想像超えて楽しく、まだ見ぬ世界を見る好奇心も刺激された。

ツアーには案内役の若い女性がいて、フランス語で、時に英語を交えて、部屋から部屋へ移動してゆく。そのときの彼女は、ブロンドの髪にブルーの瞳、わりと小柄で、白衣を着ていて、パリの街角で仲間たちのなかで静かだけどちょっと目を引く存在というような感じの女性だった。その姿形の記憶はだいぶ、おぼろげになってきているのだが、ひとつだけ確固としているのは、彼女の匂いの記憶だ。

初めてフランスを旅して、強烈な文化度の違いを感じたのが、匂い、アロマ、だった。いまでこそ、日本も、アロマについてはさまざまに美や食や住に生活のエッセンスとして取り込まれているが、当時は違った。シャルルドゴールに降り立った瞬間からといってもいいほど、フロアーにも店舗にも空間にも、そして女性にも、匂いの存在があった。写真ではわからないそのことが、リアルな体験として生理的なインパクトとして刻まれた。

そのツアーでも、一緒になったフランス女性やイギリス女性(アメリカ女性かもしれない)からは、魅惑的で自己主張の強い香りが立ち上っていた。それは、この街全体、そして工場全体から立ち上る、さまざまな香りの交響楽のなかで、耳元で鳴り響くバイオリンの音のようなものだったかもしれない。ツアーの最後に、匂いのエキスを調合する体験コーナーがあり、そこで僕はあることに気がついた。

彼女は香水をつけていなかったのだ。ツアーの案内役の静かだけどちょっと目を引く、その彼女が。

たまたま、僕の隣に立ったとき、そのことがわかった。ある特定メーカーの香水をつけないことで他の香水メーカーに対して配慮する。そんな事情もあったかもしれない。でも、僕が直感的に思ったのは、お客様が匂いに鋭敏な神経を使う体験調合コーナーで、自分の匂いはいらない、という「考えられた気持ち」ではないか、ということだった。香水の奥深い世界を知覚していただくために、自分の香りを消し去る。自分を香らせない。そのことは、僕には「彼女の生き方」なのだ、と感じられた。そして、それは、きれいな生き方なのだ、と。

自己主張をしないと生きられない社会になりつつある今。人はどうしたら、きれいに生きられるのか。そのことをよく思うようになった。答えは容易には見つからない。しかし、自宅に届けられたラベンダーの花束の香りが、過去の記憶へのスイッチを灯し、僕をある香りの物語へと導いてくれた。

彼女はどうしているのだろう。もう年をとり、自分が若き日に見学ツアーのガイドをやっていたことなど、思い出すこともまれになったかもしれない。しかし、彼女の生き方は、僕のなかで、一瞬の物語として水面下に静かに流れながら、鮮やかに、あのときの彼女のまま香り続けている。


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