少年K、初めて路面電車に乗る。
戦後の空気がどこかに感じられた頃のことだ。
少年Kが、市電に初めてひとりで乗った時の話をしよう。
それはもう50年以上前になるけれど、記憶のなかに妙にとどまっていて、
ささやかだが、ずっと存在し続け、ふいに蘇ることがある。
まるで、しばらく使っていなかったカバンのなかに、
一枚の美術館の入館切符が思いがけず残されているように。
横浜の運河の近くに住んでいたKは、よく市電に乗った。
坂下橋と言う橋を渡った向こうに停留所があった。
その停留所は、単なる一つの駅ではなく、車輛の車庫になっていて、始発や終着の市電が次から次へと、出たり入ったりしていた。
滝頭車庫。そこから、Kの家族たちは、横浜一の繁華街である伊勢佐木町によく出かけていった。
伊勢佐木町は「ザキ」と言われていて、楽しいことはなんでもあった。本当になんでも。まさに街ごとアミューズメントパークのようだった(今ふうに言えば)。
「不二家」の一号店があり、大型書店「有隣堂」があり、シューマイで名高い「博雅」があり、「野澤屋」や「松坂屋」といった華やかなデパートがあり、人がひしめくように通い、あふれ、復興から高度経済成長期に向かう発熱するエネルギーに、満ち満ちていた。映画館も林立し、占領軍の米兵たちもハリウッドの最新作を見ようと、この街で休暇を過ごすのだった。一歩、目抜き通りの裏に入れば、巨大な歓楽街が長く続いていた。
それは、おそらく小学校2年生くらいだったと記憶している。
ある学校帰りの午後、運河近くの公園で遊んでいたら、Kは急に市電に乗りたくなった。
伊勢佐木町に行きたくなったのだ。
この世でいちばん欲望をかきたてるその街が、遠くから、少年Kをまねいた。
本を買いたいとか、映画を見たいとか、チャーシュー麺を食べたいとか、そんな目的があったわけでなく、ただただ、行きたくなったのだ。
Kは、まねかれるままに、運河を渡り、滝頭の停留所に立った。ランドセルを背負ったまま。
「ザキ」へ行く市電はすぐ来た。
その時、Kはあることに気がついた。
それは、初めてひとりで、市電に乗るということ。
いつもは父や母といっしょだった。
不安がきゅんと少年の胸のなかで破裂した。
しかし、Kは乗った。
それからの人生を見てみれば、向こうみずに生きることができなかったKらしくなく、その時の少年Kに、大きなためらいはなかった。
市電はゴトゴトと走り始め、車掌が客の間を縫いながら回って来た。
Kは、父や母と乗る時と同じく、運転席の後ろにいた。
「切符は買った?」
そう車掌が聞いてきた時、少年は目の前が白くなった。
その白くなった感じを、50年以上たった今でもはっきりと覚えている。
少年Kは、お金を持たずに市電に乗ってしまったのだ。
確か、子供料金は5円だったと思う。その5円さえも少年は持っていなかった。
近所の公園で遊ぶにはお金は必要なかったが、
ひとり旅の冒険にはお金が必要ということだった。
車掌は,恐い顔をして「いつもそうなのかい」と問いつめる。
少年の目の前は、ずっと白いままで視界はぼやけていた。
その時、「〇〇ちゃんかい、おじさんが替わりに払っとくよ」という声が聞こえた。
声は、運転席からだった。
ぼやけた視界のまま、運転席の空間に首を入れながら声の主を仰ぎ見ると、
その運転手さんは近所のおじさんだった。
Kが白い雑種のコロと散歩している時、近くに寄って来て、可愛いね、とニコニコと頭をなでてくれるおじさんだった。
そのおじさんが、運転手さんだったのだ。
車掌は、何も言わずにKから離れてゆく。
「遠くまで行っちゃうと、また帰りに電車に乗らないといけなくなるよ」
おじさんは、前をまっすぐ真剣に見ながら、操縦のレバーを小刻みに動かしながら、でも、確かに少年に話した。
「次の停留所で降りれば、歩いて帰っても、すぐだよ」
少年は、次の停留所で降りた。
おじさんに、ありがとうのひとことを言えたかどうかの記憶はない。
気が動転してしまって、視界が白いまま、降りることさえ、必死だった気もする。
降りた停留所は、乗った滝頭から3つ目だった。
昭和30年代の横浜の空は、どこまでも広かった。
その空が少し暗くなり始め、遠くの雲は茜色に染まりかけていた。
運河に沿って、果てしのない空の下を、小さな体の少年は歩いた。
運搬船が、はねるように海面を進んでゆく。
潮の匂いが体全体を包んで過ぎ去る。
少年はとぼとぼとひたすら歩いた。
家では、夕食をつくりながら、お母さんが心配しているかも知れないと思った。
お母さんに、時々散歩の時に会う近所のおじさんが運転手さんで、
そのおじさんに今日は、助けてもらったことを言わなくちゃ。
少年は、そのことを頭のなかで繰り返し唱えながら歩いた。
夕闇が迫っていた。運河の水がだいぶ黒ずんで見えていた。
少年は、急に淋しくなった。
そして、家に向かって、運河沿いの道をランドセルを揺らしながら、
勢いよく走り始めた。